コラム

IRの重要性が増した理由 vol.1
IRはなぜ"経営課題"になったのか

東京証券取引所の市場改革と金利環境の変化は、日本企業に新たな課題を突きつけている。IRは単なる情報開示の延長ではなく、資本市場との関係性そのものを設計する機能へと進化している。しかし現場では依然として「情報量と説明の充実」にとどまる企業が少なくない。あるべき姿とのギャップが、隠れた「経営課題」となった経緯について、日本IR協議会特任研究員・杉由紀氏に解説してもらった。

東証改革と金利の復活がIRを変えた

東京証券取引所による市場改革は、日本企業に対してこれまでとは異なるメッセージを突きつけた。それは「資本をいかに効率的に使っているのかを説明せよ」という要求だ。PBRや資本コストといった指標の明示は、単なる開示項目の追加ではない。企業経営そのものに対する評価軸の転換を意味している。

この変化をさらに決定的にしたのが、「金利のある世界」への回帰である。低金利時代においては、安全資産ではほとんど利回りが得られなかったため、投資家が要求する資本コストも低くとどまっていた。しかし、金利上昇によって安全資産の利回り(いわゆるリスク・フリー・レート)が上がると、企業はより高い収益性を確保しなければ「価値を創造している」とは見なされなくなる。投資家は、「この資本はどこに使われ、どれだけのリターンを生むのか」をこれまで以上に厳しく問うようになった。

この結果、IRに求められるものが「経営の結果をどれだけ丁寧に説明しているか」から、「資本配分の意思決定に関する議論」へと変わった。開示の質以上に、経営の質が問われる構造になったともいえる。IR部門の役割も、企業と資本市場とをつなぐ重要な経営機能へと進化しているのだが、経営者やIR部門がその変化に対応しきれていない会社が少なくない。

PBR1倍割れ問題の本質は企業と市場の「断絶」にある

東証改革以降、多くの企業が直面しているのがPBR1倍割れの問題である。この問題については、「情報開示が不足しているために正しく評価されていない」という説明がしばしばなされる。しかし、この理解は本質的ではない。

多くの企業で、開示するデータの量は十分な水準にある。決算説明資料や統合報告書も充実しており、形式的な情報不足が原因とは考えにくい。にもかかわらず評価が低迷するのは、市場が企業を「理解していない」のではなく、「納得していない」からである。

典型的な企業像を想像すると分かりやすい。事業は堅実で、財務も安定している。統合報告書も整備され、決算説明会や中期経営計画や経営方針の説明会も継続的に実施している。それでも株価は上がらない。このとき企業側は「十分に説明しているのになぜ」と考えがちである。しかし投資家から見れば、「将来どのように価値が高まるのか」に関する材料が依然として不足しており、そこに深いギャップがあるのが実情だ。

この背景には三つの要因がある。①資本収益性の低さ、②成長ストーリーの不在、③期待形成の不足である。特に、上記のような企業では②や③が目立つ。投資家が企業を分析する際は、企業の戦略を吟味し、事業の成長率や収益性について様々な前提を設定した上で、数期先の業績の予想数値を作り上げる。将来の業績予想が高まれば、企業価値の成長に応じた高い目標株価を設定することができる。成長ストーリーに説得力が薄く、また十分な説明がないと、企業の将来に対する合理的な期待を持つことは難しい。その結果、「情報開示は十分であるにもかかわらず、投資家に評価されない」という状態に陥る。

したがって、PBR1倍割れの問題は単なる開示項目の多さや財務指標の高低だけの問題ではない。企業と市場の間に存在する認識のギャップ、すなわち「断絶」の問題なのである。

低PBRの裏にある「期待形成の失敗」

低PBRも、根底にはこの「断絶」がある。逃されがちだが、PBRの分子である株価には、市場が企業の将来にどれだけの期待を織り込んでいるかが表れている。PBRをさらに分解すると、ROE(株主資本利益率)と、PER(株価収益率)を掛け合わせたものと書き直せる。つまりPBRの低迷は単純にROEの低さだけで説明するべきではない。この点を踏まえると、多くの企業が直面している課題は明確で、株価に表れる部分、つまり今期の1株利益の何倍の株価か付いているか(PER)、すなわち成長期待の形成にも失敗しているということである。問われているのは、単なる数値の高低やその内訳ではなく、その数値がどのような事業戦略から生まれ、その意思決定がどのようになされたのかということなのだ。

最近は、PBR改善を目指して、ROEの水準や改善計画を丁寧に説明する会社が増えた。しかし、ROEは、特定の決算期の結果指標に過ぎない。どの事業にいくら投資し、どの事業を縮小するのか。その理由は何か。その事業はどのような戦略で、どのような道筋をたどって成長するのか。その結果として稼いだキャッシュのうち、どれだけを次の成長事業に投資し、どれだけを還元するのか。会社の経営戦略と、その裏にある資本配分の方針とが一貫した循環として示されなければ、投資家は将来の姿を描くことができず、自信を持って「この会社は割安だ」と判断するには至らない。

IRの役割が根本的に変わってきていることがお分かりいただけたのではないだろうか。IRは、もはや過去の結果を説明する機能にはとどまらない。資本配分の考え方を市場と共有し、期待を形成する機能が重要になった。したがって、IRは財務戦略や事業戦略と切り離して存在することはできないし、CFO(最高財務責任者)やCEO(最高経営責任者)の意思決定と一体となって、経営の中核に組み込む機能と位置付けるべきである。

日本IR協議会特任研究員

杉由紀

ビジネス誌記者、外資系証券会社および国内系・外資系の資産運用会社アナリストを経て、アリアンツ・グローバル・インベスターズ・ジャパンで日本株式調査部長を務めた。現在は企業のIRアドバイザーを務めるほか、日本IR協議会特任研究員として、企業のインベスター・リレーションズや経営戦略策定等のアドバイスを提供する。ピクシス合同会社代表。博士(経営情報学)。

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